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銀座まちづくりコラム

街区と建物

銀座通りの幅はなぜ27mなのか

明治5年の銀座煉瓦街を最初につくろうと発案したのは誰なのか、実ははっきりとわかっていません。東京府知事由利公正と、大蔵大輔(府政を財政面で監督する立場)井上馨のそれぞれが、「自分こそが煉瓦街を発案した」という回想録を残しているからです。
ただし、きっかけとなったのが明治5年2月26日に銀座を襲った大火であったことはまちがいないようです。銀座煉瓦街の歴史にくわしい藤森照信先生(工学院大学教授)は、さまざまな資料を調べて、煉瓦街計画は由利公正ではなく、築地本願寺脇に住んでいた大隈重信と、井上をも含む周辺の面々が談論風発の中で考え出したものを、大隈と井上が正式に発議したものではないかと結論づけています。
火事からわずか二日後に道路改正が内定し、四日目には煉瓦化が決定し、六日目には布告されたということですから、今では考えられないスピードですね。

さて、煉瓦街計画の主な柱は、「街路計画」と「煉瓦造り建築」の2つですが、では今につながる「道路の幅」はどうやって決められたのでしょうか?
江戸時代の街道の幅はおよそ7〜8間(13〜15m)で、東海道である銀座通りもそのくらいでした。日本には自動車はもちろんのこと、馬車もありませんでしたから、道はもっぱら歩く人のためのものだったのです。
当時、由利公正らが調べたところでは、ニューヨーク、ワシントンの道幅は24間(約44m)、ロンドンは25間(約45.5m)だったといいます。そこで、世界の大都市と肩を並べるためには、そのくらいの道幅にすべきだという意見も出たのですが、その一方で、必要もないのにそんなに広い道路をつくってどうするのだ、という意見も出て侃々諤々となりました。25間といえば3倍以上の幅ですから、想像もつかない広さだったことでしょう。

しかし、これといった決め手もなく、8間と25間のあいだをとって20間、あるいは15間と議論はゆれうごき、ようやく15間=約27mに落ち着きました。そして、晴海通りは10間=約18m、横丁(東西の通り。松屋通り、マロニエ通り、みゆき通りなどにあたる)と裏通り(並木通りなどにあたる)は8間=約14m、その他の道は3間=約5.5mという、街路の構成が決まったのです。
晴海通りだけは、関東大震災後に拡幅されましたが、そのほかの道路の道幅と街路構成は今も変わっていません。

15間道路、10間道路、8間道路には、歩道も付けられました。銀座通りには、左右それぞれに3間半の歩道もつけられました。あわせて7間。すなわち車道幅は8間で、江戸時代の街道幅そのものだったことがわかります。つまり、江戸の街道幅はそのまま残し、歩道部分のみを拡幅した、ともいえるわけです。
このとき銀座通りの道幅がニューヨーク並みの45mと決っていたら、まったく違う街並みができていたことでしょう。銀座通りが歩くのにちょうどよい、楽しいスケールなのは、歩くことを中心にした江戸の道幅の感覚が残されているからかもしれません。

にぎわいをつくる要素

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