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銀座まちづくりコラム

にぎわいをつくる要素

銀座と地下鉄

銀座には、銀座線、丸ノ内線、日比谷線、有楽町線、都営浅草線と5本の地下鉄が通っています。乗降客数の合計は年間約1億5500万人。また、平成11年に東京都が行ったパーソントリップ調査では、銀座への交通手段の約66.5%が地下鉄を含む鉄道利用によるものということがわかっており、JRの駅を持たない銀座は、まさに地下鉄の街と言えそうです。ちなみに、そうでありながら地下街のまちではないところが銀座の特徴です。銀座は地上を歩くまち。空の広さを楽しみながら、銀ブラを楽しんでいただきたい。それが銀座の気持ちです。しかしあまりに殺風景な地下通路も困りものです。地上と同様、人が楽しく歩けるような工夫は必要でしょう。

日本で最初にできた地下鉄は、今の銀座線です。
のちに「地下鉄の父」と呼ばれるようになる早川徳次は、佐野鉄道(現・東武鉄道佐野線)、高野登山鉄道(現・南海電気鉄道高野線の一部)の経営を立て直したのち、ロンドンの地下鉄を視察に行き、東京にも地下鉄をつくろうと志をたてます。それからというもの、専門家や技術者、実業家等、会う人ごとに地下鉄の夢を語ったものの、まったく理解されませんでした。そこで早川は、私営で地下鉄をつくる決意をし、路線、地質、湧水量を独自に調査・研究することにします。路線を決めるために、銀座尾張町の交差点(現・銀座4丁目交差点)に立って人の往来、路面電車、乗客、荷車、人力車、馬車、自動車の交通量を調べるなど、場所と時間を変えては半年間にわたって調査を重ねたそうです。その結果、浅草から上野、銀座、新橋を結ぶ路線の交通量がもっとも多いことが確認されました。つまり、日本橋をはさんで南北に延びる通りです。早川はこの結果をもとに「起業目論見書」「概算書」をつくりあげ、バックアップしてくれる実業家を探して働きかけました。地道な努力の結果、着想から5年後の1919年11月、ようやく東京地下鉄道建設の免許を得るのです。

その後もさんざん資金調達に苦労した結果、さらには関東大震災の洗礼を受けて、当初の浅草―新橋間の路線は一時棚上げとして、浅草―上野間を通し、それから徐々に路線を伸ばしていくことになりました。我が国初の地下鉄工事の遂行も並大抵の苦労ではなかったようです。

浅草―上野間開通が昭和2年12月。京橋―銀座間が開通したのは昭和9年のことです。その頃の銀座は、それまで尾張町、南鍋町、竹川町などとついていた江戸以来の町名が、銀座と銀座西それぞれ1−8丁目となり、町名としての銀座8丁が誕生したばかり。松坂屋、三越、松屋と巨大デパートが登場する一方、カフェが全盛期を迎えていました。銀座の地価が日本橋を抜いたのもこのころです。そして銀座通りには柳が復活。それを記念して、柳まつりが始まっていました。戦争ムードが高まる直前の、銀座がもっとも華やかだった時代ともいえましょう。

そして昭和14年に新橋―渋谷間が開通。今の銀座線の路線ができあがります。

戦後の復興とともに昭和32年、地下鉄丸ノ内線(東京―西銀座間)が開通します。当時の丸ノ内線駅は「西銀座駅」という名前でした。フランク永井の「西銀座駅前」という歌もヒットしました。続いて昭和38年、都営地下鉄浅草線(人形町―東銀座間)が開通。39年に日比谷線の東銀座―霞ケ関間が開通。これで地下鉄銀座総合駅が誕生しました。さらに、49年には有楽町線の池袋―銀座一丁目間が開業し、現在の地下鉄駅が出そろったというわけです。

日本はもちろん、アジアで初めての地下鉄であった銀座線。2012年春から、開業当初の車両(旧1000形)をモチーフとした新車両が運行することになりました。詳しくはこちらをごらんください。

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